松下幸之助の身近に仕えて学んだ生き方

                 高橋誠之助 




《突然の縁》

上司の営業所長から突然、本社転勤の内示を受けたのは昭和四十四年。私は二十九歳
でした。学生時代に松下幸之助の著書に触れてその生き方に感銘し、松下電器に入社
して七年目を迎えた時期でした。

 それまでは主に広島の営業所で販売の第一線に従事し、その半年ほど前に代理店の
販売会社に出向、経営責任者の職務に就いたばかりです。それだけに移動はまったく寝
耳に水でした。
 新しい仕事にやりがいを感じていました。これから本格的に動こうと思っていた矢先です。
移動は困る、受けられない、と答えました。

 この異動は断れない、と上司は言い、とにかく本社に行くように指示されました。
 本社に顔を出すと、面食らうような事態が待っていました。松下幸之助直々の面接がある
というのです。

 幸之助は当時会長で、はるか雲の上の存在でした。入社式の挨拶もその当時の社長の
松下正治だったから、入社後幸之助の顔を見たのは、私が労働組合の支部長をしていて、
組合幹部会合で幸之助が話をした時一度だけです。幸之助は講演や講和の席では必ず
質問や意見を求めます。その時私は、量販店の対策について尋ねました。幸之助の丁寧
な答えが印象的でした。それだけの接触です。

 いささか緊張して幸之助の前に出ました。そんな私に二、三、簡単な質問をしてから、
孝之助はこう言いました。

「私は忙しい。松下家の家長として十分なことができん。それをきみにやってもらいたいん
や。奥さんとよう相談して運んでほしい。よろしく頼む」

 奥さんとは孝之助夫人のむめのさんのことです。その時七十五歳だった孝之助は、
若造の私に頭を下げました。

 会社のセクションで言えば秘書室西宮分室勤務となりますが、私の出勤先は西宮の
孝之助の自宅、松下家執事というのが仕事の実態です。

 あの時のことを思うと、不思議な気がします。松下家の内懐に深く入らなければ、この
仕事は勤まりません。そんなことが私にできるだろうか・・・何か重たいものがずしりとの
しかかってきた感じでした。だが、なぜか迷いはありませんでした。私もまた、やらせて
いただきます。と頭を下げていました。

 縁だった、と思わずにはいられません。まさに私の人生を決定づけた深い深い縁でした。
 それにしても、執事とは主と一体になり、主の暮らしに細かいことまで分け入り、時のは
己を殺し、時には主に成り代って仕えなければなりません。そのためには特別な資質が
求められるような気がします。私は販売畑ではそれなりの評価を得ていたと自負があり
ますが、特に執事向きの性格であるとも、その資質があるとも思えません。そんな私に
なぜ白羽の矢が立ったのか。人事部がセレクトし、幸之助が承認したという順序だと
思いますが、それがどうして私だったのか。これは今でも謎です。

 だが、謎のままでいいと思っています。私は余人が経験することができないかけがえの
無い場を与えられ、人間としての修養を積むことができたのですから。

 こうして私は二十年以上にわたり、晩年の松下幸之助に仕え、松下家の執事を務める
ことになったのでした。






《むめの夫人の存在》


 幸之助は建築が趣味といった趣があって豪邸を建てた時期がありましたが、私が入った頃は、夫婦二人が暮らしやすい家というところに落ち着いていたのでしょう、比較的小さい住まいで、暮らしぶりも華美や贅沢には遠く、世間並みを心得た質素なものでした。
 それでもメイドなどの使用人がいます。植木屋などの職人も出入りします。それにファミリーとの交流や付き合いがあります。また、幸之助の立場上、自宅を私的なものだけで区切ることはできません。公的な用向きもどんどん入ってきます。
 これらのすべてを任され、実印から蔵の鍵まで預かって仕切っていくのが私の役目です。
 炊事や掃除などの日常への目配りから家屋の修理、庭の植栽の管理、お客様への対応、ファミリーから友人知人にかかわる冠婚葬祭への気配り、建築好きの幸之助だから、改築、茶室づくり、さらにはお孫さんの家づくりにも関わっていきます。そして、警察や消防といった機関との連絡やつき合い。数え上げたらきりがありません。それは雑用の集大成ということができましょう。いつ、何が起るか分かりません。私はいつでも連絡が取れ、三十分以内には西宮の松下邸に駆けつけられる態勢をとって、つまり自分のすべてを捧げて、これらの雑用に打ち込みました。
 さまざまな雑用をこなす仕事そのものが、私にとっては何よりの人間修養の場になりました。そして、雑用とはどうでもいいといった価値の低い仕事ではなく、これなしにはどんな生活も成り立たない、人間の生き方のもっと基本的な部分を支えるものであることを知りました。その視点で人間を見、世の中を見る。そういう人生観をこの仕事は養ってくれたと感じています。
 それにしても、いろいろ苦労はありましたが、とにもかくにも私が執事の仕事を身につけ、大過なくこなすことができたのには、二つのポイントがあったと思います。
 一つは、幸之助が自らかいてくれた職務心得です。社長時代、幸之助が出した社長通達がゴマンとあることは有名です。これはどんなこともなおざりにせず、すべてに一生懸命だった幸之助の生き方を示すものだと思います。幸之助は私にすべてを任せたとは言いましたが、放り出したわけではありません。執事として心得るべきことを、明確に文章にしてくれたのです。
 長い間執事を務める中では、判断に迷うことも多々ありました。しかし、どうにか職務を全うできたのは、常に職務心得に立ち戻って、原点を踏まえることができたからです。
 そしてもう一つ、むめの夫人の存在を欠かすことができません。私が松下家に入った時、婦人は七十七歳でしたが、頭脳は明晰で、相談すればポイントを外さず、指示は簡潔で明確でした。夫人がそこにいることが、どれだけ私を安心させたかしれません。
 淡路島の廻船業を営む家に生まれたむめの夫人が結婚した直後に、幸之助は電灯会社を辞め、独立しました。新居に幸之助が持ち込んだのは両親の位牌だけ、あとは何もなかったといいます。夫人は総務部長兼経理部長兼人事部長兼お茶酌みといった趣で働き、嫁入りに持参した衣装類を質に入れて資金をつくり、幸之助を支えました。
 幸之助は戦後、逆境に立たされました。病気の上に公職追放になり、身動きが取れなくなったのです。おまけに工場内の在庫に物品税がかけられ、その上会社に対して個人保証していたため、十億円(当時の金額で)の負債を背負いました。何事にもめげない幸之助ですが、さすがに飲めない酒を飲んでまぎらわすしかなかったといいます。そんな幸之助を支えたのもむめの夫人でした。
 男のロマンは女の不満になりがちです。あれほどの大事業を成し遂げた幸之助です。気持ちはともかく、家庭的であることは物理的に不可能でした。だが、それを不満としなかったのはほかでもありません、夫人も幸之助とロマンを共有することで、夫人は自らの人間性を鍛えていったのです。そのことは折節に私が感じつづけた事でした。
 松下電器の創業者といえば、幸之助ということになっています。しかし、むめの夫人の名を決して落とすべきではない、と私は思っています。
 そのことを誰よりも知っていたのは幸之助自身でした。また、幸之助の婿養子松下正治は、夫人を幸之助のイコールパートナーと呼んでいます。





《もう一つの原点》


 公的な顔と私的な顔がまったく違うというのは、よく聞く話です。だが、その意味では松下幸之助は期待を裏切りました。公の場でも私的な場でも、同じなのです。まったく裏表がないのです。あれほどの事業をなした人間としては稀有なことかもしれません。
 幸之助に対する評言はいろいろと聞かれます。だが、こういうことを言う人はまずいないのですが、幸之助という人を一言で表すなら、一つのことを目指して公的にも私的にもその生涯を貫いたという意味で、純粋そのものの人だった、と私は思うのです。
 幸之助の生家は素封家だったが、父の代の没落し、幼くして丁稚奉公に出なければならなくなった、というのはよく知られた話です。その生家の再興、家の意識が幸之助の立志の原点である、というのもよく言われていることです。
 それは確かでしょう。だが、それだけではない。幸之助をかくも大きくしたのにはもう一つの原点があり、それには大きな影響を与えた人物がいる、と私は考えています。
 幸之助は二度目の奉公先として、自転車店で働きました。そこの社長は九歳で父に死なれ、八歳年上の兄の行商と母の内職で育ちました。ところが、この兄が伝染性眼病で失明してしまうのです。兄は按摩、つまりマッサージ師になります。
 賢い人だったのでしょう、この兄は按摩をしながらお客と話す中でヒントをつかみ、不動産仲介業に乗り出して莫大な利益を上げました。弟の自転車店の資金は兄が提供したのです。
 この兄は五代五兵衛と言いましたが兄弟の面倒を見ただけではありません。全盲の身でありながら、身体障害者が自立するための学校を設立し、私財を注ぎ込んで運営にあたったのです。
五代五兵衛は弟の営む自転車店によくやってきて、おしゃべりをしていくのを楽しみにしていました。その送り迎えは幸之助の役目でした。
 全盲の五代五兵衛の手を引きながら道々聞く話。自分のことだけでなく、人のため、ひいては世のために尽くす素晴らしさ。その感動が大切な人間形成期の幸之助の感性をどれだけ刺激したかは、計り知れないものがありました。
 それこそが幸之助のもう一つの原点であり、この原点を貫いたところに、幸之助の純粋性はあったのだと思わずにはいられません。
 松下幸之助といえば、即「経営の神様」と木魂が返ってくる感じです。だが、それでは幸之助の真髄を矮小化するだけです。経営は幸之助にとって、手段の一つに過ぎなかったのです。
 では、幸之助の志したものは何か。それは、「楽土建設」の一語に集約されます。一人ひとりがそれぞれの幸せに満ち足り、その上に立って一人ひとりが世のため人のために尽くして生きる。そういう徳性の高い人々で地上が満ち溢れる。それが幸之助の思い描く楽土でした。五代五兵衛に呼び覚まされた志は、この一点に結晶したのです。
 幸之助が楽土建設をはっきりと言い出したのは三十七歳の時です。以来、幸之助はこの一念に生き抜いたのだといって、過言ではありません。
 幸之助は楽土建設を二百五十年の大計だと言っていました。この二百五十年は科学的な根拠があっての数字ではなく、いかにも幸之助らしい考えから出てきたものです。
 大阪では「半値八掛け」ということを言います。人生五十年なら半値八掛けで二十五年。自分の思いを一人が二十五年受け継いで、それを十回繰り返せば二百五十年。それだけやれば楽土建設は実現する、ということです。
 そのために幸之助が考えたのは、物と心でした。幸之助はまず物から入りました。物を大量に生産して誰でも容易に物の豊かさを享受できるようにする。幸之助が経営に心血を注いだのはそのためだったのです。
 幸之助が次に目を向けたのは心でした。人のため世のために尽くす心を養う努力に向かったのです。それがPHPの運動でした。
 だが、幸之助はある時期から、物と心だけでは何かが足りない、と思い始めました。足りないものは何かを思い詰め、行き着いたのが政治でした。そして八十四歳になっての松下政経塾の設立になるのです。





《蓮如のごとく》


 私は幸之助の臨終に立ち会いました。その様子は、悟り済みましたといったものとは程遠いものでした。死にたくない、もっと生きたい、と必死の思いが形相に表れていました。
 こういう最後を、人はどのように評するかは知りません。しかし、いかにも松下幸之助らしい立派な最後だと私は強い感動を覚えました。もし静かな、満ち足りた最後だったとしたら、私は何か裏切られたような気持ちになっていたかもしれません。
 楽土建設はまだ緒についたばかり。自分にはまだまだやらなければならないことがある・・・幸之助はその思いを捨てず、最後の最後まで志を達成し、そこに自己完成を重ね合わせる純粋な生き様を貫いたのです。私の感動はそこからきたものであり、立派だったと思う所以もそこにあります。
 幸之助が逝って四年後、むめの夫人が亡くなりました。楽土建設という幸之助のロマンを最もよく理解し、共感し、寄り添っていたのは夫人でした。あの志を受け継いでいってほしい・・・その思いを一番強く感じていたのは私かもしれません。
 幸之助が逝き、夫人が逝って、執事としての私の役目は終わりました。だが、長年お二人の身近に接し、日常の何気ない言葉や行いに多くのことを教えられ、それを修養の糧としてきた私には、いつかお二人の思いが、ロマンが、乗り移っていたようです。お二人の大きさには及ぶべくもないが、その志を受け継ぎ、楽土建設という二百五十年の大計の一部を果たしていく務めが私にはある、と思わずにはいられないのです。
 幸之助の七回忌はむめの夫人の三回忌でもありました。その直前に、幸之助の志を、その志に寄り添ったむめの夫人の思いを広めるために、財団法人松下社会科学振興財団が設立されて、その財団の支配人として私が実務面を担当することになったのは、大変な幸運でした。
 財団は平成六年に松下資料館を開設し、私はその運営に当たっています。この資料館は物を展示するのではなく、松下幸之助の楽土建設に結晶する哲学、思想、理念、精神、志を知ってもらうための施設です。一人でも多くの人に幸之助の思いに触れていただき、何かを感じていただくために残る人生を全力を尽くすのが、私の生き方になりました。
 親鸞の教えは弟子の蓮如によって広められました。もちろん親鸞・蓮如師弟の大きさには足下にも及ばないし、例に持ち出すのさえおこがましい限りですが、この蓮如の役割と相似形の位置に自分がいるのを感じるのです。
「すると私が親鸞かいな。そんな滅相もない大それたことを言いなさんな」
 私をたしなめる幸之助の声が聞こえてきそうです。
 大それているのは承知の上です。だが、松下幸之助という偉大な存在の身近に仕えることができ、鍛えられた幸運は、何物にも替えることができません。この幸運に報いるためにも、親鸞の影を踏む蓮如の爪の垢を煎じて飲むぐらいのことをしなければならない、と思っているのです。