| 名田さんが喉から手が出るほどに一流ホテルに欲しがられたのは、超名人の顔をことごとく覚えていると言うだけではない。たとえば次のエピソードに現れているような接客態度が、ホテルのグレードを高めていくのに不可欠だと思われたからだ。
あるとき、結婚式の披露宴の席で、アルバイトのウエイターがあるご婦人の豪華な色留袖に赤ワインをかけてしまった。さっそく大阪に三軒しかないという、特殊な染み抜き専門のクリーニング屋に持ち込んだものの、赤ワインの赤は取ることはできなかった。名田さんはホテルを代表してお詫びに行ったが、何度行っても許してもらえなかった。
八回目、お詫びにうかがったのは早朝の六時だった。旅行に行かれる前にお会いしたいと思ったのだ。しかし、その日も取り合ってもらえない。思わず名田さんは、打ち水してある玄関に土下座して謝った。
それを見たご主人が思わず駆け寄り、抱き起こして、ご夫人に助言された。
「お前、もう機嫌を直したらどうか。名田さんがここまで誠心誠意を尽くしてお詫びされているんだから」
その助言で奥様もようやく気を取り直し、また元のようにお付き合いされるようになったのだ。
小柄な身体に満面の笑みを浮かべて、名田さんはその事件のことを述懐した。
「雨降って地固まるのことわざ通りでした。トラブルの解決の過程で、私も先様のことがいっそうよくわかり、また先様も私のことをわかっていただき、信頼が増していったのです。お陰様でいまでもお付き合いしていただいています」
次の例も結婚式披露宴でのトラブルだ。指の間に何本ものビール瓶を挟んで運んでいたアルバイトのウエイターがそれを落としてしまい、噴水のように吹上げたビールが、手書きの見事な留袖を着ていらっしゃったご夫人に降り注いでしまったのだ。
お陰で白地の留袖は台無しになってしまった。聞けばその着物は、東京・多摩に住む高名な日本画家に手書きしてもらったもので、一品しかない高価なものだという。しかもその画家は高齢のためもう絵筆は手にされないらしい。
名田さんはその画家のところに日参し、もう一度書いてもらえないかとお願いした。一回目、二回目、返事は思わしくなかった。そして三回目、とうとう深夜十一時半まで粘ってお願いを繰り返した。するとご夫人が同情し助け舟を出してくださり、
「あなた、描いてあげてくださいな」
と取り成してくださった。それでようやく描いてもらえることになった。交渉に三ヶ月、絵付けに六ヶ月、そして縫製に三ヶ月かかり、やっと一年後に新しい着物ができ上がったのだ。
それをもって名古屋のお宅にお伺いすると、涙を流さんばかりに喜んでそのご婦人は言われた。
「新しい留袖ができたことがうれしいのではないのです。高齢でもう絵筆は執らないとおっしゃっていた先生を説得して描いていただいた、あなたの誠意に感服したのです。また以前のようにお付き合いくださいね」
ホテルのグレードはただ単にロビーや宴会場や客室の豪華さで決まるのではない。ホテルがお客様をどう扱うかで決まるのだ。決して怒らず、いつも頭が低い名田さんの態度は、こうしてホテルのグレードを高めていった。そして、名田さんの習い性となっていった。
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