伝 説 の ド ア マ ン

                                   神渡 良平


『伝説のドアマン』と呼ばれる所以


 関西に『伝説のドアマン』と呼ばれている人がいる。ホテルでの宴会が終わると、千名もの人が次々にエスカレーターに乗り、車寄せに降りてくる。カーサービス係は一人ひとりの顔を見るなり、反射的にマイクで運転手を呼び出す。

 「関西電力の○○様、お車を玄関にお回し下さい」

 大混雑になっても仕方ないが、それでもなお、いかにスムーズに車を呼び、お帰りいただくかが、ホテルの腕の見せ所だ。そのため、ホテル側は総務課やその他から数十名のホテルマンを動員して交通整理にあたる。マイクをにぎり、車を呼び出す係はその司令塔といえるわけで、ホテルの格はそれで決まるといっても過言ではない。

 名田正敏さんは長らくその係だった。車寄せにくるお客様の顔をほとんど知っており、言われる前に車を呼び出し大混雑を見事にさばいていたのだ。伝説のドアマンと呼ばれ、一流ホテルが喉から手が出るほど欲しがった人である。

 あるいは、パーティーがない昼下がり、一人の紳士が車から降りる。すかさず、名田さんはドアを開け、さりげなく呼びかける。

 「○○様、ようこそいらっしゃいました」

 すると紳士の顔に一瞬喜色が浮かぶ。自分の名前を覚えておいてくれたのかと、喜んでいる様子だ。四千名余りの顧客の顔を覚えているからこそできる接客である。

 「○○様、昇進おめでとうございます。今度専務におなりになったのですね」

 先方は、「そこまで知っているのか」と感動する。

 「新聞の人事異動欄で知りました」

 こうして付き合いは個人レベルへと進んでいく。

 「実は今度息子が結婚する事になったんだ。ついては披露宴をお宅のホテルで頼むのでよろしく」

 あるいは取引先の企業を集めて、営業促進大会を開きたいが、せっかくなら名田さんのホテルで行いたいと申し込まれる。名田さんは営業マンではなかったが、こうして年に四億円余りを売り上げた。通常の営業マンが年間八千万円を売り上げている頃の話だから、破格の成績だったのだ。

 こんな名田さんだったから、平成八年一月十九日、大阪を代表する名門ホテル、ウェスティンホテル大阪の顧客部長を最後に、三十一年間のホテル勤めを終えて引退するとき、約三百五十人の人々がお別れパーティーを開いてくれた。いつもはパーティーの裏方であるホテルマンが、パーティーの主役になることはあり得ない。「伝説のドアマン」と呼ばれる所以である。




魚の仲買見習いからホテルマンに


 関西の一流のホテルの立ち上げにはいつも引き抜かれていった名田さんは、しからば、有名な大学のホテル学科を卒業し、何カ国語を操るエリートホテルマンかというとそうではない。では、国賓接待にも通じているホテルマンであるからには、上流階級の出身かというとそうでもない。

 名田さんは、山口県東部の祝島の出身で、小学校を卒業すると山口県仙崎にある水産講習所に入ったものの、家の経済によって中退し、魚の仲買見習になった。漁師が獲った魚をもっとも高く買ってくれる魚市場に売る商売である。祖父がやっていた商売の見習いをしていたのだが、だんだん魚が獲れなくなったので、祖父の死をきっかけに辞め、大阪に働きに出てきた。二十九歳のときである。

 こうして住友系の倉庫会社で働いていたのだが、その倉庫が郊外に立ち退き、跡地に大阪ロイヤルホテルが建つことになった。大阪府や大阪市、住友銀行などが出資して、大阪における最高のグレードのホテルとして、鳴り物入りでスタートしたのだ。

 したがってフロントも宴会係も客室係も選りすぐりの人物が引き抜かれ、固められた。名田さんはそこに移る事になった。三十四歳だった。

 配属になった部署はドアマンと組んで働く配車係。ドアマンはホテルに着いたお客様に最初に出会う人なので、ホテルは気を使い、長身で何か国語かを話す格好いい人を配属する。名田さんは身長百五十七センチで小柄な部類だ。言葉も日本語しかできないうえ、田舎なまりしか話せない。当然ドアマンにはなれず、配車係に回された。しかしまあ、仕事にありつけたのだから、良しとすべきだと考えた。そういって自分を慰めてみたものの、周りはみんな高学歴で、同年代の者たちはすでにしかるべきポストに就いてバリバリ仕事をしている。小学校しか出ておらず、水産講習所も中退している自分は、年齢もいっているし、経験者でもないし、出世したとしてもそこそこでしかないと腐らざるを得なかった。




人生を変えた上司の助言


 このまま続けるべきか、それとも転職をすべきかを迷っているとき、藤田豊宴会部長がこうアドバイスしてくれた。

「名田君、上を上をと背伸びして、管理職を夢見てもしょうがないよ。学歴で競っては勝てっこないし、無いものねだりをしてもどうにもならい。

 それよりも君の上の土俵を作るべきだ。たとえば、お客様との心の結びつきにおいては誰にも負けないというようなね。お客様を誰よりも君のファンにする。ロイヤルホテルが君を手放したくないと思うほどの存在になるんだ………そこに活路があるのではないか」

 藤田部長は大阪ロイヤルホテルを定年で退職したものの、お客様の要望が強く再び復職し、とうとう取締役までなった人である。しかも退職するときには、財界人たちが歓送会を開いて別れを惜しんだという伝説の人である。

 その藤田部長のアドバイスが名田さんの視点を変えた。見れば、熟練したドアマンはお客様の名前を覚えており、到着されると、

「○○様、よくお越しになりました」

 と名前を呼んでお迎えしている。聞けば、三十年ものキャリアがあるから、できることだという。

「ああ、早くああなりたい。お一人おひとりの名前を呼んでお迎えしたいものだ」

 それができるためにはどうしたらよいか。仕事を続けていれば、自然と覚えるのか。その期間を短縮するためには、どういう工夫をしたらいいのか。

 それには集中して覚えるしかないと思った名田さんは、非番になると、ロイヤルホテルをよく利用される企業四百社を一つひとつ訪問し、駐車場の出入り口に立って、重役達の名前と顔、車種、ナンバー、運転手名を覚える努力を始めたのだ。受付に名前を確かめに行って不信がられ、あわててロイヤルホテルの身分証明書を示して意図を説明し、ようやく納得してもらったこともあった。

 暑い夏の日も、寒い冬の日も、名田さんは各社の駐車場にたち、重役達の顔を覚えた。そんな名田さんの熱意に次第に運転手達が協力をしてくれ、総務部に出入りできるようになった。またホテルに来たお客様が、

「君はいつかうちの駐車場に立っていたね。君の努力には感心するよ。ごくろうさん」

 と声を掛けられたこともあった。こうして二年がかりで四百社を回り終わり、四千人の顔を覚えたのだ。

 名田さんの努力はそれで終わらなかった。先輩を追い越そうと思った名田さんは、お客様の情報を書いたリストに、出身地、出身校、趣味、家族関係などの情報を加えて、肉の焼き加減はどうか、酒はウイスキーしか呑まれないなど、食事の好みをシェフにそっと耳打ちしては、万全の接待を心がけた。だから、名田さんの細やかな心配りに感動したお客様が、

「もうよそのホテルにはいけないなあ」ともらされたとき、名田さんは先輩に勝った!と思ったという。

 たかがドアマンと言うなかれ、去れどドアマンなのである。名田さんはカーサービス係の責任者になり、ロイヤルホテルを代表するドアマンになっていった。




ホテルプラザへの引き抜き


 こうなると、大阪の著名人の顔はことごとく覚えている名田さんは貴重な存在となった。昭和四十一年、大阪ロイヤルホテルよりも更にグレードの高いホテルとして、ホテルプラザの企画が持ち上がると、さっそく名田さんに声が掛かった。しかし、ロイヤルホテルとしても手放すわけにはいかない。移籍には一年もかかってしまったが、ホテルプラザに移ると、更に活躍の場が広がった。

 国賓を迎えるためには、ホテルにも最高級のマナーが要求される。そこで名田さんは志願して東京に行き、赤坂の迎賓館で一週間にわたる接待の特訓を受けた。こうして瀬戸内海の漁師の倅が日本で最高のマナーを着けるに至った。

 ホテルプラザには十九年半勤め、副支配人までなった。その後、昭和六十三年、大阪銀行が十三に建てたプラザオーサカに取締役支配人で移った。ここに一年勤め、次に神戸の顔として新神戸オリエンタルホテルがオープンすると、宿泊マネージャーとして呼ばれていき、五年勤めた。

 もうこれでホテルマンは引退しようと思っていると、平成五年、大阪・梅田に、関西一グレードの高いウェスティンホテル大阪がオープンし、顧客担当部長として呼ばれていった。ウェスティンホテル大阪とは、世界のホテルの格付けでもっとも権威ある「世界リーディングホテル協会」の会員に、帝国ホテルやホテルオークラと並んで選ばれているホテルである。大阪でも二つのホテルしか入会を許されていない。そのホテルの格式づくりを手伝ってくれというのだ。このように世間はなかなか辞めさせてはくれなかった。

 ホテルで接客にいそしむ一方で、名田さんは、平成元年、関西の二十七のホテル従業員二百名余りを集めて、接客法を学び合う勉強会「名声会」を発足した。ホテルの格式はホテルマンの接客の向上からしかないと、ホテルを超えて後進の育成に乗り出したのだ。こうして名田さんが獲得した技術は後輩たちに受け継がれていった。




トラブル処理に見せた誠意


 名田さんが喉から手が出るほどに一流ホテルに欲しがられたのは、超名人の顔をことごとく覚えていると言うだけではない。たとえば次のエピソードに現れているような接客態度が、ホテルのグレードを高めていくのに不可欠だと思われたからだ。

 あるとき、結婚式の披露宴の席で、アルバイトのウエイターがあるご婦人の豪華な色留袖に赤ワインをかけてしまった。さっそく大阪に三軒しかないという、特殊な染み抜き専門のクリーニング屋に持ち込んだものの、赤ワインの赤は取ることはできなかった。名田さんはホテルを代表してお詫びに行ったが、何度行っても許してもらえなかった。

 八回目、お詫びにうかがったのは早朝の六時だった。旅行に行かれる前にお会いしたいと思ったのだ。しかし、その日も取り合ってもらえない。思わず名田さんは、打ち水してある玄関に土下座して謝った。

 それを見たご主人が思わず駆け寄り、抱き起こして、ご夫人に助言された。

「お前、もう機嫌を直したらどうか。名田さんがここまで誠心誠意を尽くしてお詫びされているんだから」

 その助言で奥様もようやく気を取り直し、また元のようにお付き合いされるようになったのだ。

 小柄な身体に満面の笑みを浮かべて、名田さんはその事件のことを述懐した。

「雨降って地固まるのことわざ通りでした。トラブルの解決の過程で、私も先様のことがいっそうよくわかり、また先様も私のことをわかっていただき、信頼が増していったのです。お陰様でいまでもお付き合いしていただいています」

 次の例も結婚式披露宴でのトラブルだ。指の間に何本ものビール瓶を挟んで運んでいたアルバイトのウエイターがそれを落としてしまい、噴水のように吹上げたビールが、手書きの見事な留袖を着ていらっしゃったご夫人に降り注いでしまったのだ。

 お陰で白地の留袖は台無しになってしまった。聞けばその着物は、東京・多摩に住む高名な日本画家に手書きしてもらったもので、一品しかない高価なものだという。しかもその画家は高齢のためもう絵筆は手にされないらしい。

 名田さんはその画家のところに日参し、もう一度書いてもらえないかとお願いした。一回目、二回目、返事は思わしくなかった。そして三回目、とうとう深夜十一時半まで粘ってお願いを繰り返した。するとご夫人が同情し助け舟を出してくださり、

「あなた、描いてあげてくださいな」

 と取り成してくださった。それでようやく描いてもらえることになった。交渉に三ヶ月、絵付けに六ヶ月、そして縫製に三ヶ月かかり、やっと一年後に新しい着物ができ上がったのだ。

 それをもって名古屋のお宅にお伺いすると、涙を流さんばかりに喜んでそのご婦人は言われた。

「新しい留袖ができたことがうれしいのではないのです。高齢でもう絵筆は執らないとおっしゃっていた先生を説得して描いていただいた、あなたの誠意に感服したのです。また以前のようにお付き合いくださいね」

 ホテルのグレードはただ単にロビーや宴会場や客室の豪華さで決まるのではない。ホテルがお客様をどう扱うかで決まるのだ。決して怒らず、いつも頭が低い名田さんの態度は、こうしてホテルのグレードを高めていった。そして、名田さんの習い性となっていった。




引退記念の歓送会


平成八年一月、名田さんがウェスティンホテル大阪を引退したとき、三百五十人余りの人々が集まって別れを惜しんでくれたことはすでに書いた。その数の多さに、建設会社に勤める長男の俊成さんは驚いて、

「僕が引退するとき、これだけ大勢の人が集まってくれるだろうか」

 と改めて父親が達成した事の偉大さを見直した。

 人間の価値は人々の評価によって定まるのだ。しかしながら名田さん自身は謙遜して決して偉業を達成したとは思っていない。

 「『人に喜ばれることをする』私の人生はただそれだけでした。学歴があったのでもなく、何か特殊な技能を持っていたわけでもなく、ただの配車係にすぎませんでした。それが上司に助言されて、人のお役に立ちたいと考えるようになり、そのことに専念してきました。

 すると人に喜んでいただけるにつれ、私も用いられるようになり、とうとう一流ホテルの副支配人にまでなれたのです。だから私は思います。人のお役に立てているかどうか。         

それがすべてだと」

 ホテル業界からは退いたものの、あっちこっちに呼ばれ、名田さんの「お役立ちするための人生」はますます盛んである。